寺の歴史
當山は曹洞宗最乗山鳳林寺と称し、開山才菴存芸和尚で、天正十五年(1588年)に創建されました。 はじめ武蔵国岩付に在り芳林寺と書きましたが、戦国の乱世によって北条氏が摂津国へ移住したのに伴い、 才菴存芸和尚も大坂に上がり、文禄の初め豊臣秀吉公より寺地をこの地に賜って今日に及んでおります。 元和元年(1615年)五月大坂夏の陣のとき、真田幸村のために茶臼山の本陣を追われた徳川家康公は 現在の谷町筋あたりに逃げたといわれております。當山の記録によれば「元和元年夏大坂の役徳川家康公が 来山され休息をしていかれた」とあります。両者を勘案すれば家康公は真田幸村の巧妙かつ果敢な攻撃に あって、逃げ道を失い、わずかの従者に守られ敵陣に迷い込み、當山に隠れて難を避けたものと思われます。 當寺天王寺付近の社寺民家おおむね戦火のために焼け、僧俗ともに四散していましたが、 當山二世明岩芳喆和尚寺に在り、国家安全の祈祷を行っていたことを、難を避けて立ち寄った家康公の 知るところとなり、寺院の安堵と摂津一国僧録の朱印を授けられたといわれております。 この頃門前の林に鳳凰の舞い降りるとの奇端あり、天下太平の吉兆なりとしてそれまでの寺号芳林寺を 鳳林寺と改めました。寛永年間三代将軍徳川家光は元和の戦で荒れ果てた大坂市街の整備と大阪城の 復興を計りました。その奉行をつとめたのが米倉丹後守です。莫大な資金をもってこれに当ったと いわれる丹後守父子はまた信仰心篤く、時の當山住職二世芳喆和尚および四世中萬源和尚に深く帰依し、 総欅造りの佛殿を中心とした七堂伽藍を建立し中興の檀那となりました。 寛永六年(1629年)六月當山は「僧録司」に任ぜられ、朝廷からは綸旨を賜り、 正徳四年(1714年)七月には大本山永平寺より「常恒会地」という曹洞宗最高の格式を与えられております。 爾来江戸時代二百余年にわたり大坂城代の菩提寺として末寺十ヶ寺余りを有し、 畿内における曹洞宗第一の道場でありました。当時寺域も広く、現在のクレオ大阪中央の西半分は當山の 境内地でその正面玄関辺りには「東の倉」が建っておりました。又大阪府ITステーションは元、 客殿があったところで、明治初期谷町小学校に、その後、東成郡役所に貸しましたが、それが大阪府の 所有に帰したもののようです。昭和十五年、現在の境内南側道路建設の際谷町筋に面していた総門も 撤去されましたが、この南側道路は総門から山門に至る参道でした。昭和二十年三月の大阪大空襲で 七堂伽藍(山門・佛殿・本堂・座禅堂・庫裡等)はじめ本尊(藤原時代定朝作釈迦牟尼佛ほか)、 宝物類(干満宝珠・明兆筆十六羅漢図等)、灰塵に帰しました。当時佛殿のあったところに建っている 現在の本堂は山門とともに、文久三年(1863年)京都二條家の当主二條斉敬が関白太政大臣に 任ぜられたとき、叔父水戸烈公徳川斉昭の水戸家がこれを祝って御所に隣接する地に建てた宸殿で 「関白御殿」、「銅駝御殿」とよばれていましたが、昭和三十四年に譲り受け移築したものです。 十五代将軍徳川慶喜は上洛すると従兄弟の二條斉敬を訪れ、この御殿で休息し、会津の松平容保、 土佐の山内容堂等と幕末の政情について会談したと伝えられております。尚境内には生玉鳳凰の碑、春日石燈、 大坂城代米倉丹後守一族の五輪塔、大坂城代安部信勝、江戸期の俳人上島鬼貫、明治期大阪財界の 重鎮松本重太郎等の墓碑があります。